吾妻の豪族羽尾氏の本拠地の城。羽尾氏は海野氏の一族で真田氏・鎌原氏などと同族である。戦国時代の羽尾氏はこの城にあって勢力をふるっていた。
海野長門守幸光は羽尾の一族である。
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海野長門守幸光は、戦国時代羽根尾を拠点に領地を所有していたが、真田氏の岩櫃城攻略のとき城主斎藤氏討伐の功績で、岩櫃城代に任じられた。その後、真田氏に逆心したと偽られて急襲され、岩櫃城にて自害したと言われている。

滋野氏族で真田氏と同族である鎌原氏の菩提寺。現在の常林寺の基を築いた鎌原重澄は真田幸隆と共に戦い、長篠の戦いにて討死している。常林寺の寺紋は六文銭である。

戦国時代上田、沼田間は真田氏の戦略路であった。江戸時代に入り、慶安4年(1652)真田氏は、狩宿に小規模の私関を創設した。その後、寛文4年(1664)に徳川幕府がこの地を公関とした。

雲林寺は、弘長3年(1263)に創建され約300年間、非常に栄えたが、大火災で亡失してしまった。その後、現在地に海野長門守幸光が永禄2年(1559)に伽藍を再建した。

東西約700mに細長く位置し、「本丸」「出丸」「箱岩出丸」「物見台」「水の手」からなる。長野原合戦の時には真田方が守っていたが、その後、斎藤・羽尾・鎌原・湯本の各氏の攻防が続いた。天正10年(1582)湯本氏以降の変遷は不詳である。
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真田氏と斉藤氏との合戦の場所。永禄5年(1562)岩櫃城主の斎藤氏と羽尾氏は長野原城攻略に動き、その後永禄6年(1563)長野原諏訪神社あたりで長野原合戦が展開されたと言われている。

長野原合戦時に真田方が防戦のため落とした橋。現在、琴橋に行くことはできない。

王城山(標高1123m)の里宮として奉られている。「加沢記」によると、王城山は長野原合戦時羽尾方が真田方と対峙した場所とあり、神社は真田幸隆が岩櫃城攻めの時、陣を設けた場所とも言われている。

丸屋の要害とも云われ、築城年月は不詳であるが、真田昌幸が三島大竹の陣所に向かう途中、大戸真楽斎と弟が要害に出迎えていたり、天正10年(1582)北条氏の吾妻侵攻に対し、湯本、西窪、横谷、鎌原の各氏が交替に籠もっていたことから、真田方の城であったと思われる。
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羽尾氏と鎌原氏の間で与喜屋村(現、与喜屋地区)と古森村(現、古森地区)の領有権争いで対立し、羽尾氏は齋藤氏と組み、鎌原氏は真田氏の援護を受け対立した。
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