OLYMPUS DIGITAL CAMERA長野原城址(箱岩城)

○長野原城と羽尾入道道雲

長野原町大字長野原の北裏山古城跡の山頂にこの城の遺跡がみられる。板状節理の箱状をした険岨な岩山の名をとって箱岩城ともいう。この城の築城年月については詳らかでないが、当地方一帯は戦国時代羽根尾領であって、永禄の頃は羽尾入道道雲の城であったといわれている。 

○羽尾入道から鎌原氏へ
羽尾入道は岩櫃城主の斎藤憲広とともに鎌原氏とその領邑を争って、永禄5年9月中旬鎌原氏によってその所領を押領されると、真田幸隆は鎌原、長野原両所の要害に禰津、芦田、甘利衆をおいて勤番させ長野原城は芦田衆によって勤番した。

○長野原合戦
永禄6年(1563)9月中旬真田幸隆の岩櫃城攻略戦は斎藤氏との和議が成立して小康を得たが、同年9月下旬斎藤憲広は進んで長野原城攻略の行動に出て長野原合戦が展開された。この時長野原城には真田幸隆の舎弟常田新六郎が大将で、手の者を率い自ら長野原諏訪明神(諏訪神社)前まで出向いて防戦したが、岩櫃城主斎藤越前守の反撃に遭い大将は戦死し、鎌原からの援軍も得られず、城兵は夜陰に乗じて砦を脱出し鎌原城に集結した。この頃武田信玄は越中駿河方面への作戦行動中だったので吾妻郡方面への援軍は出せなかったので、この好機に乗じて岩櫃城斎藤越前守は、長野原城に入城し、羽尾入道道雲は本城に入ってこの城を回復したのである。〈※2〉

○羽尾入道の最後。その後・・・
その後同年10月13日真田氏は大軍をもって斎藤氏の居城岩櫃城を攻撃して、これを陥れたので城主斎藤憲広は、越後の上杉謙信を頼って敗走したので、岩櫃城は真田幸隆の手中に帰ったのである。また翌月の11月27日夜、羽尾入道は、羽根尾の館におったが、鎌原氏の軍勢300騎の奇襲に遭い、大戸城に敗走したが程なくして没した。羽尾入道の死没後は、当城は鎌原氏の手に帰した。その後湯本氏が入って城を守り、天正10年夏、北条氏が吾妻郡へ侵入を企図したときは、湯本三郎右衛門がこの城を守っていた。

○長野原城の終末
天正10年(1582)以降この城はどんな変遷を経たか、全く不明で廃城の年月日も不詳である。(加沢記、吾妻郡城塁史)

長野原町誌(上巻)より抜粋

〈※2〉尚、長野原合戦で戦死したのは、真田幸隆の甥常田新六郎俊綱との説が有力である。また、長野原城に入城したのは羽尾氏の海野長門守、能登守が入城したとの説もある。