羽根尾城址

羽根尾城跡○羽根尾城の概要
長野原町大字羽根尾の西北方800m程の城峯山々頂にその遺跡がみられる。雑木林に囲まれ頂上に僅かな平坦地がみられ往時の面影がしのばれる。山麓西側に地獄窪という窪地がある、里人の云うに首切り場だったといわれている。更に大字大津字御堂入山口(中央小学校北裏山頂)に羽尾氏の馬場という所がある、短形の窪地が南北に拡がり三方は急勾配の要害の地である。また城址の北方堀切りを距てて稜線伝いに約50mほどの雑木林に囲まれて5m四方位の池がある。湧水で北方水といわれ城の用水として使用されたことが考えられる。城峯山南麓で、海野長門守墓地の下方の畑地をお屋敷跡といっている。これについての資料がないので武家屋敷の存在は詳らかでないが、このお屋敷跡の入口(国道145号線羽根尾公民館附近)には立派な門があったという。

○羽尾氏
この城は戦国時代羽尾氏の本拠であって、羽尾幸全入道とその弟、海野幸光、輝幸の兄弟もここから出ている。このことは羽尾記の冒頭に上州吾妻郡羽尾という山里に羽尾入道何某という侍あり云々と書かれてあることによってもよくわかる。羽尾氏が信州滋野の末葉であることは加沢記に吾妻三原の地頭滋野の末葉、羽尾治部小輔景幸といひし人なり云々と記されていることで知ることができるが、その世系は明らかでなく、加沢記、羽尾記も一致していないことが次の系図によってわかる。

図

○羽尾三兄弟
戦国時代に羽尾氏は、羽根尾城にあって勢力を振い、草津の湯本、嬬恋の西窪、鎌原両氏等と並んで吾妻を舞台に活躍していた。羽尾治部少輔景幸には三人の子があり、長子を羽尾治部道雲入道、二子を海野長門守幸光、末子を海野能登輝幸といった。この三人兄弟のうち特に末子の能登守輝幸は、吾妻郡内はもとより近郷にも有名な荒武者で、武芸にも長じ力量も百人力といわれていた。永禄6年(1563)長野原合戦の折、海野兄弟は岩櫃城斎藤越前守方の大将を承り、長野原城を攻め大将常田新六郎は戦死し、戦功によって鎌原を追放して長野原城に復帰したと伝えられている。

○鎌原氏の侵攻
ついで永年6年11月平素海野兄弟とは折合のよくなかった鎌原氏は海野氏の手勢僅か数十人の隙をみて羽根尾館へ押寄せたので入道は、長く支配していた坪井、羽根尾、長野原、古森、与喜屋を捨てて、須賀尾峠を超え大戸へ逃げ落ち、羽尾旧領は鎌原氏に味方した湯本善太夫の領地となった。

○真田幸昌と羽尾一族の最後
永禄9年真田幸隆は、岩櫃城斎藤越前守討伐のとき、真田方について戦功のあった海野兄弟を三原郷全域の支配に任じ岩櫃城代を命じた。その後真田幸隆の死没により子昌幸が継承した。昌幸は、海野兄弟を信頼して吾妻郡を一任したが、海野兄弟に対する誤解と地侍の手前から天正9年(1581)11月岩櫃城の海野兄弟を急襲したので、幸光は城中に攻め寄った敵十数人を斬伏せたが、自ら隙をみて自害し城に放火して75歳の生涯を閉じた。この頃弟能登守は沼田城に居って武田信玄より上州出陣の作戦会議を申入れられたが、自分を討つためと察し身の潔白を申立てようとしたが不調に終り沼田迦葉山に退き、追討つ真田信尹(昌幸の弟)に応戦して切りまくったが、多勢に無勢で遂に父子差しちがえて自刃した。時に能登守輝幸72歳、子の中務幸貞38歳であった(加沢記)。長野原町戦国時代の英雄羽尾一族は終わったが、その最後は戦国の武士らしく立派な最後だった。

○羽尾一族亡き後の羽根尾城
海野兄弟亡き後、弟能登守輝幸の子に当る中務幸貞の子が真田昌幸方に引取られ男子原郷左衛門となり血統を継ぎ、上杉方に居たので上杉景勝の援助で郷里に攻め入り丸岩城に入ったといわれる。海野兄弟を失った羽根尾城は、天正11年(1583)昌幸の命により湯本三郎右衛門が在城するようになった。〈※1〉

○海野長門守創建の雲林寺
長野原町大字長野原曹洞宗雲林寺は碓氷郡安中市後閑長源寺の末寺であって、永禄2年(1559)3月15日僧長為景勝長の開山で、海野長門守創建の寺だといわれている。更に同町大字羽根尾字小滝にある宋泉寺は雲林寺の末寺で、天正3年(1575)7月15日海野長門守当所領有のとき、菩提寺として創建されたもので、その後の大破により正徳3年(1713)10月15日本寺の雲林寺八世和尚膠室従弟柏翁長老の願いによって再建されたものだといわれている。

 

長野原町誌(上巻)より抜粋

〈※1〉尚、丸岩城に入ったのは、羽尾源六郎であったとの説もある。