丸岩城址(丸屋用害)

新緑の丸岩○丸岩城の概要
長野原町大字横壁の南方丸岩の岩峯は丸岩城址を頂いている。北面は赤い岩肌をむき出した絶壁となり、南は岩峯から続く稜線が起状しながら須賀尾峠へと伸びている。
標高1,120m、三方は100m余の岩壁を繞らし、南の一方だけが登路になっていて峠に通じている。この稜線が追手虎口で蜒々170m余の土居が北西に向かってのびていて、西風を防ぐ役割を果たしており、須賀尾峠からの登山道になっている。
この土居の南端部東側(追手虎口附近)には武者溜が見られ、その東と南との下方には腰曲輪がついている。

 

○丸岩城は柳沢城の要害城
丸岩城は柳沢城の要害城であって、両城を合わせて横壁城というべきであろう。この城とは別に丸屋の要害ともいい、築城年月については不詳であるが、加沢記によれば永禄6年(1563)10月中旬真田昌幸、矢沢頼綱は五百余人を引きつれて、大手三島大竹の陣所に向う途中、この丸屋要害を通ったことが記されている。このとき大戸真楽斎、弟但馬守の両名は二百人程の兵を率い須賀尾峠丸屋の要害に出迎え、真田の兵と合わせて七百余騎云々とある。或るいはこの時代、この城は大戸真楽斎の城であったのではあるまいか。

 

○丸岩城の城主
長野原郷土誌によれば元亀年中には海野幸全が居住していたという。更に加沢記では、天正10年(1582)8月北条氏が吾妻郡に侵入を企図したときは、湯本、西窪、横谷、鎌原の4人のものが交替で加辺屋の要害に籠っていたと記されている。また、沼田盛衰記によると、天正16年の頃横河辺、丸屋城は鎌原宮内、羽尾入道、横谷左近、湯本三郎右衛門が交替で守っていたことが見え、加沢記と大同小異である。
天正17年(1589)8月北条氏が吾妻に侵入を企図したとき、この城は鎌原、湯本三郎右衛門、西窪治部、同甚右衛門が守備していたという。(加沢記)(吾妻郡城塁史、吾妻郡誌)

 

長野原町誌(上巻)より抜粋